Sさん(80代・男性)は、4人兄弟の長男。高校卒業後、父親が営む金型工場に勤め始めました。25歳の時に結婚し、35歳で工場長を任されてから真面目に働いてきました。息子が2人いますが、それぞれ地方の大学に進学し、そのまま就職したため、工場の後継ぎはいません。80歳を過ぎたころ、工場を引き継いでくれる人が見つかり、その人に委ねて引退しました。
引退して1年がたったころから、胃がんや腸閉塞(へいそく)で入退院を繰り返すようになりました。妻が亡くなってからは、軽度のアルツハイマー型認知症と診断されました。ご家族もSさんが一人暮らしを続けることを心配し、Sさんと話し合った結果、Sさんはサービス付き高齢者住宅(サ高住)に入居することになりました。
入居してから「家に帰りたい」と言うこともありました。その度に、息子さんが電話をかけてきて話し合い、Sさんも思いとどまる――ということを繰り返していました。
しかし、1カ月が経過するころには、同じフロアの入居者のTさんと話す様子も見られるようになり、「家に帰りたい」と言うこともなくなりました。ところが、入居して1年が過ぎたころに、仲の良かったTさんが急逝しました。初めてできた友人でしたし、食事も同じテーブルでとっていたこともあり、Sさんにとっては相当ショックが大きかったようです。
食事の時間には食堂に来られるものの、話し相手がいなくなったSさんは、食べ終わるとすぐに自分の部屋に戻るようになりました。デイサービスも休みがちで、一日の大半を自分の部屋で過ごすようになりました。
スタッフが息子さんにSさんの様子を伝えたところ、翌週末には面会に来られました。わざわざ遠くから来てくれた息子さんにも感謝の気持ちを伝えていました。息子さんが帰り際に、「お父さんも元気に過ごしてね。Tさんの分も人生楽しんで」と声をかけると、Sさんも「そうだな」と、うなずいていました。それからはデイサービスにも休まず通うようになり、ご家族も安心していました。
それからさらに2年が経過したころ、Sさんの言動に変化が見られるようになりました。少しぼんやりとした表情で過ごす時間が増え、時々、「わたしの部屋はどこでしたかね?」「朝ごはんは食べましたかね?」と確認する会話が増えてきました。
そうした様子から、職員は「Sさんの認知症が少しずつ進んでいるのかもしれない」と思うようになりました。しかし、目立った混乱が起きているわけではなかったので、しばらく様子を観察することにしました。
ある日、Sさんが自分の部屋から食堂に来たものの、いつもの席に向かわずに、食堂を一周して部屋に戻るということがありました。部屋に戻る直前に、職員が「どうされましたか?」と尋ねても、黙って部屋に入ってしまいました。職員から「Sさんお茶ですか? トイレですか?」と声をかけられても。その声かけに少しイライラした表情を見せるようになり、「うるさい!」と声を荒らげることもありました。職員も次第に対応に気を使うことが増えていきました。
そんな折、他の入居者の訪問診療に来ていた医師が、Sさんが部屋から出てくる場面に出くわし、「こんにちは」と声をかけました。医師はSさんに認知症があるかどうかも知らず、「どちらに行かれるのですか?」と普通に質問をしました。するとSさんも「部屋にじっとしているのもしんどいのでね。どこに行くということはありません」と普通に答えられたのです。
その様子を見ていた職員は、デイサービスに行く日は体を動かすけれど、何もない日は、ほとんど体を動かすことがなく、「じっとしているのもしんどいもんだ」と口癖のようにSさんが言っていたことを思い出しました。それからというもの、Sさんを「認知症が進んでいる人」として見ることをやめました。Sさんが部屋から出てきても、フロアを歩いている様子を見守るだけの対応に切り替えたところ、穏やかに過ごしてもらえるようになったそうです。
ただ、見守るだけでいいこともある――。そういうことに気づかされた事例でした。
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